短い春

4月の初めに現場調査に行った時、その傍らに生えてたフキノトウを天麩羅にして春を食した。


タラノメ、蕨、コゴミなど里山の山菜は気が付いたら既にみんな葉を開いていて、時は既に遅し

春は遠くに過ぎ去ったかのような夏日が続く。


昔の話になるが50年前はこの5月の連休が桜の満開時期であった。

私の生まれた奥州涌谷のさくら祭りの最大のイベントは農耕馬によるそり引き大会である。

そりに重しを乗せて馬に引かせる競技で、涌谷城下の河原で全国から農耕馬が集まる壮大な万馬大会である。


今年も既に桜の花は無い葉桜のもと50年も前と同じ日の4月29日に行なわれた。


その頃、万馬大会は全国各地で開催され馬主は自慢の愛馬を連れて賞金稼ぎに勤しんだ。

当時はトラクターなど無い時代である。田起こしは人力か牛馬による作業である。

牛や馬が相手である。中には頭のできの悪いのや食いしん坊、暴れん坊がいる。そこで鼻先のロープをとって人が牛馬を先導して田起こしや代かきをする。人も牛馬も泥塗れとなりとんでもない作業だ。


私が12歳の頃、その牛の鼻先をつかまえて鼻取り役をさせられた。

ぬかるみの中ひたすら牛の鼻先をとって田んぼの中を行ったり来たり、体重400kgもある牛を操るのは過酷な労働である。子供心に地獄の世界に思えた。


5月の肌寒い中、そして冷たい水の中、裸足で時には転んで、子供の私も泣いたが牛の眼にも涙の筋があった。帰り道小川で牛の体を洗う。虐待のような作業に解放され泥まみれの体を洗ってやると「モーウ、モウ」と嬉しそうだった。


そんな世界は私だけでなく周りの普通の農作業である。小中学校はその時期は休みになる。

子供たちは農作業に欠かせ無い労働者だった。


当時、牛馬の糞尿の匂いが生活臭であるほどお馴染みの匂いであったが、飼われていた家畜たちは

今は無くなった。匂いがきついので人家から離れた所で飼われている。

それも搾乳牛か食肉用として、それを多くの人が美味しいと言って飲んでいる牛乳や、

生産地名をつけて「なになに牛」と名付けて焼き肉になっている。

私の住まうこの辺りでは「仙台牛」として売り出されてる。


子供の頃は牛や馬を食べるなど知らなかった。

すき焼き、牛タン、馬刺し、豚足など成人しても食べなかった。

今でも牛タン、馬刺し、豚足は口にしない。

売られていく牛の目に溢れるほどの涙を見ては、彼らの舌や心臓は食べられないのだ。


春は小春日和、寒の戻り、陽だまり、そして花冷えなど繰り返してゆるゆると過ぎれば、

春の楽しみはひとしおなのに今年は駆け足で過ぎ去った。


里山は蛙の合唱だ。

田おこしや 大きな牛の 眼に涙 



一週間遅かった。残念。葉が開いたコゴミの山



東北地方の背骨のなってる奥羽山脈の一つ。「船形山」の春

みやぎ野造園

1977年宮城県仙台市で開業。現在は富谷市明石にて営業。 近年は庭石の撤去工事が多く、その石を破砕して再利用した お洒落なロックガーデンやガーデニングに力を入れています。