倅の質問
倅の話だが、私が47歳にしてできたいわば孫のような存在だ。
けれども正真正銘の倅、長男である。
その倅からメールで以下のよう問合せが来た。
1 子供の頃大人になったら何になりたかった?
まったく辺鄙な田圃と山に囲まれたところで育ったから周りには憧れる職業は無かった。
物売りが来て払う現金がないので米や麦を対価として渡す物々交換の自給自足の生活の中で職業を選択する考えはなかった。そんな所から逃れるようにほとんどの若者は都会へ向かった。
私もその中の一人である。
後に定時制高校に入ると、全国各地から私同様に東京に来た男女がいた。
様々な職業についていてクラスの仲間で家が建てられるようだった。
みんな自立するのが夢であった。
たまたま植木屋さんでアルバイトしたのが縁でその仕事が山育ちの私にあっていた。
長くやってるとその仕事が今では遊びになっている。
お客様の学校の先生がリタイヤした後、子供の顔は見たくないと言ってた方がいた。
この方は教育者になるためにその職業を選んだのではない。食うために、老後の年金受給率を計算して教育者になったのであった。辛抱強くその職を勤め上げ、退職してその職業から解放されたのだ。彼の人生は子供のためではなかった。
私もその教育者も生きるためにもがいてきたのだ。
年金のない老後だが仕事を遊びにして生き永らえる私。
職業に解放され厚い年金制度に守られて長〜い1日を暮らす人。果たしてどちらがいいのだろう。
2 人生で1番後悔している事は?。
あなた達が現れてから後悔するようなことはないけれど、その以前は私の人生はこれでいいのだろうかと悶々していた。若さの勢いであの娘と結婚すればよかった。
食えないと言って結婚はまだまだ先と生きてきて、見渡せば単身で生きてるのは私だけだったりして。周りには20代で世帯を構え住宅を買い子供を養う姿をうらやましく思った。
彼らはローンは払い終わりその住まいを建て替え新たな住居で孫達に囲まれうまく生きてるだろう。
私が住宅ローンを借りたのは45歳だから同世代の人から見ればだいぶ遅いし完済も80歳になる。
その意味で私の人生の歩みは亀そのものであった。もちろん遅く結婚したからあなた達に出会えた。亀の歩みも神様の采配と思い、遅い結婚も感謝している。 後悔はない。
3 子供の頃の1番の恐怖はなんだった?大人になってからは?
母の実家に何かの用事で行った。距離は泉中央から我が家ぐらいだろうか。
ご飯を食べてから帰るんだ?と言われ帰りがちょっと遅くなる。
その夜は星もなく月明かりもない漆黒の夜だった。荷物を背負いひたひたと歩く。
誰かが私を追ってくる。ひたひたと。急足になるとトトとと追いかけてくる。
走ってもタタタタと追いかけてくる。怖ーい。「かぁーちゃん助けてー。」
息切れ切れでうちに入った。「どうしたのや?」
母の問いに「う、後ろから誰かがついてくるー。」
母が笑って「自分の足音だべぇ。」12歳の頃。
20歳の頃、茨城県の大洗海岸へ行った。
5月の頃でとても暑くつい海水に入ってひと泳ぎしたつもりが岸を振り返ってみたらとんでもなく沖合に流されていた。助からないと思った。試しに深さを探った。意外にも浅く足が着いた。それから飛び跳ねを繰り返し浅瀬にたどり着いた。
これだけではなく九死に一生は度々あった。
4 今までで1番嬉しかったプレゼントは?
プレゼントで嬉しいと思うことはまずない。その中で感動したのは初めて見た我が子であった。
これは嬉しくて嗚咽してその喜びに浸った。姉のことである。
私にそっくりなこともあり神様はとんでもない贈り物をくれたと今でも思い出せば涙が溢れる。
もちろんあなたの時も同じだ。少し感動が薄れた感は否めない。
5 家族の中で一番影響受けた人は?
まるでない。残念だけど。無学の集団の中で自給自足の世界がその頃の日本であった。
芋ばっかり食ってきた人が今の時代にほざいた言葉は芋は食い物でないと。
そりゃそうだ肉や魚を食っていれば芋が美味いと思う。
芋も肉魚も手を加えて時々食すればそれなりに美味しい。毎日では食い物にならない。
猫がカリカリを食わないのも道理である。
その頃の若いものは歌謡曲の歌い手や相撲、プロレスラーなどに憧れて飛び出す若者、自立して一旗あげて故郷に錦を上げようと皆、大都会に繰り出した。
東京はその人種の集まりの果てが今日である。
試しに周りの人の親の出身地を聞けば必ず地方の地名が出てくる。
誰も彼も家族の影響でなく自分自身で今日を生きてきた。私の場合はその知らないことや、
悩み、恨みつらみも含めて古本屋で解決法を見出した。これは田舎ではできなかったことである。
あなたが小学3年の時クラスで、先生が私は何々大学を出ました。
そうするとクラスメイトが「私のママとパパは何々大学」と皆言った。
学校から帰ったあなたは「パパはどこの大学を出たの?」と聞いた。
「はい。私は東京の立派な社会大学を出ました。」
次の日たぶん「僕のパパは東京の社会大学を出た。」と自慢したことだ。それは嘘ではない。
私は社会で独学でさまざまなことを学んだ。たくさんの本を通してまた実社会の中で勉強した。
こうした文章を書き下ろすことができるのもそれらがベースになっている。
私の卒業した大学は名の知れない立派な大学である。
6 過去に戻れるなら何かやり直したいことは?
そうだな、もともと英語の勉強をしていたから植木屋でなく外国で通じる技術、例えば車の修理を習得して海外に渡りたかった。しかし今こうして生きてれば植木屋で正解だったのだ。
辛い日もあるけど喜怒哀楽の中に我が身を置いて生きてる実感がたまらなく素晴らしく思う。
7 人生で学んだ1番の教訓は?それを子供にどう伝えたい?
常々話していることだが夢や希望は永く思い続けること。
「一念、岩をも通す。」「一滴の雨だれ石を穿つ。」
この世にある有形、無形のものは人の思いから現れたものである。
ピラミット、万里の長城のような有形。さまざまな歌や曲は無形だ。
全て一人の人間が思い、願いを表したものである。永く続けることでその人特有の傑作が生まれる。子供の顔を見たくないと言った教育者のような人生はごろごろいる。
「俺は生きてきた。」と吠えなさい。
8 パパが去った後、俺に一つだけ覚えてほしいことは?
まぁ、お金のことだな。借りたら利息を払うこと。10%は払うこと。
一方貸すときはその金はあげるからまた借りに来ないでという。
稼ぐのに時間や身体を売って稼いではダメです。技術、能力、人、金で稼ぐこと。
そのために可能な限りその勉強しなさい。そのお金は惜しまない。支払いは全てその場で現金。
金になるものへは先行投資すること。税金は必ず払うこと。
住まいは太陽が昇る辰巳「東南」の開けたところに住まう。結婚相手はすぐ手を出すな。
神食品は次のものです。
ニンニク、生姜、玉ねぎ、ニラ、リンゴ。
最後に声の限りに歌う貴方は脳梗塞予防に次のものは避けること。
白米、ソフトドリンクはじめ糖分の多いものは血液ドロドロになるので食さない。
怪我をしたらお茶で洗う。焼酎で洗い直す。次の日熱が出たら医者に行く。
痒いところは重曹を擦りつける。車や台所に重曹と焼酎は常備して置きなさい。
とても一つだけとはならない。まだまだあるけどまた次の折に話そうか。
50年前こんなお庭を作るとは想像だにしなかった。
ゴルフのパターをしたい。
傍にテーブルを置きたい。
そしてガーデニングをしたい。
隣家の視線を遮蔽してほしい。がこうなった
私の仕事が遊びになってる。ながーく続けることがだいじです。
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