故郷。

東北の寒村、田んぼと沼と遠くの奥羽山脈の山々、そして満天の星空だけしか記憶にない遠い少年の頃の故郷。



そこで過ごした時間とその後、東京で暮らした時間はほぼ同じくらいであった。


私の故郷は東北の寒村と東京の下町である。


住めば都、辺鄙な山里も人混みの中の下町も永く住み親しむとどこか心安らぎこの世の最上の都に思える。



年を取ると若い頃に生活したところが無性に懐かしい。機会をつくって時々東京の下町散策をしている。


昔の話だが田中角栄氏が首相を務めていた頃、日中国交が回復した。氏の最大の功績だがその後、中国残塁日本人の帰還事業は始まった。



ある日、町役場から中国から帰還婦人の身元と引受人を依頼された。

母の記憶では夫の姉らしい。面識はあるけど結婚以前に満州に渡った方そうだ。気の毒であり安易にそれを引き受けたのであった。


その後前触れもなく突然我が家にその婦人が現れたのである。その弟に当たる母の夫、私の父は遠い昔、私の幼少時に亡くなっている。中国満州からの帰還した婦人はいわば私の叔母にあたるのだが母を含めて交流の全く無い方である。


役場からの依頼もあって身元引き受人となり短期滞在と思いきや長男という方も呼び寄せて狭い家屋に三年も居続けた。帰りたくないと泣いて懇願するのをむげに追いやれずにいる母の苦しみは身辺のにもわかった。



日本で過ごした二十年より四十年も暮らした満州は懐かしくないか、彼の国にいる娘や孫に会いたくないか、長男家族が心配でないか、など言を尽くしてご帰還願った。



満州に帰還後間も無くまた身元引受人の依頼が町役場からあったが丁寧にお断り申し上げた。


次回は役場の方でお世話すると言ってきた。なにしろ伯母の満州人の夫、子、孫一家が日本に来たいとのことである。

なにしろ母一人では手に余った。


日本で生まれ育った二十数年そして四十年余り暮らした満洲国どちらも望郷の思い断ちがたく去り難いことであったであろう。


叔母は無論、子や孫は日本に来れば言語や環境で苦労することが目に見えてくる。彼らはまた満州を懐かしみ望郷の思いに駆られることだろう。

日本に定住して時が経てばこの地が故郷になる。

私のワイフも日本に来てから三十年。生まれ育った故郷には二十年。



今は日本人と見分けがつかないほどになった。
流暢な仙台弁は私譲りである。





宮城県大崎地方の田園

奥羽山脈、船形山

みやぎ野造園

1977年宮城県仙台市で開業。現在は富谷市明石にて営業。 近年は庭石の撤去工事が多く、その石を破砕して再利用した お洒落なロックガーデンやガーデニングに力を入れています。